平成に置いていく表現
よし、「熱のときに見る夢みたい」という形容は平成に置いていこう!
— ダ・ダ・恐山 (@d_d_osorezan) April 30, 2019
自分の中で使い古したユーモア定型文を平成に置いていくという流れ。
この機運に乗じて、僕もある一つの表現を平成に置き去りにして、心持ち新たに新元号を迎えたいと思います。
とはいえ、こういう時に
「サイコパス」
「ディストピア」
「並行世界の○○」
「(記事冒頭に突拍子もない写真をアップした後)突然○○しながら失礼します」
みたいに、腐りかけだという自覚があるものを処理してもしょうがないと思うのです。これらは宣言しなくても、いずれ自分の中で使わなくなっていくものだからです。
置いていくなら、今生の別れを。
僕は今日、身を切るような決意を持って、一つのユーモア構文を平成に捨て行きます。僕はね、「面白い」と言われる喜びよりも「しょ〜もない」と言われる恥の方が気にかかるんです。
今回捨てるユーモア構文。
今まで何度か自分の中で陳腐化しようとはしたのですが、適切なレッテルというか、ちょうど手のひらサイズに収まる呼び名がなかったために、「画一化された手法ではない」という錯覚を覚え、今日までだらだらと使い続けていました。
便宜上、この手法を「本家取り」と呼びましょう。
言葉は残酷なので、名前が与えられると途端にこの単語のサイズに成り下がります。いい気味です。
こちら、今から説明を試みてみますが、適切に伝えられるか自信がありません。そして、令和にはコレが使えなくなるのかと思うと、「本当に良いのか」という躊躇いが指先を鈍らせるため、少々持って回ったような言い方になるかもしれません。
本家取り。
平たく言うと「ツッコミ構文にプロフェッショナルや本家本元の視点を割り込ませる」というものです。分かりにくいでしょうが、コレがインスタントなユーモアを得る上で本当に便利な手法でした。
例えば…
友人が作ったカレーが辛すぎたときに言う
「こんなのインド人でも辛いって言うぞ」
これです。
ディズニーランドでミッキーを見てはしゃぎまくる友人に対して言う
「ミニーでも そんなテンションには ならねえだろ」
これです。
構文にするなら
「(a)でも(b)って言うぞ」
(a)…状況にあうプロの名称 (b)…単純なツッコミ台詞
でしょうか。
これは本当に便利です。
機能的には普通のツッコミと変わりません。相手のズレた言動に対して「おかしいだろ」と指摘するだけです。
ただ、その文頭に「プロが見ても」と言う注釈を込めるだけでいいんです。
こんな食い物、農家でも捨てる
伊能忠敬でも「少し休もう」って言うだろ
こんな部屋、永井隆でも「狭っ」って言うぞ
本当に便利だったんです。
メカニズムとしては「ガンジーでも助走つけて殴るレベル」と同じですが、これほどのクリエイティビティがなくても、誰でも素軽く使えたのがこの構文です。
今まで何度この定型文に助けられてきたことでしょう。
自分の中でも薄々「腐ってきている」と気付いていたのですが、都度、言葉尻を変えて尻尾を掴まれないように足掻き続けてきましたがもう限界です。
使ってみるとわかるのですが「社員でも」でほとんどのケースが網羅できるんです。
さわやかの社員でもそこまで絶賛しねえだろ
アップルの社員もこんな機能知らないんじゃない?
こんな過金額、Cygamesの社員でもヒくぞ
もう潮時でしょう。
断腸の想いでこの定型文を平成に捨てようと思います。
これを見ている人はきっと「何を大仰な」「勝手にすればいい」「しょ〜もない」と言うでしょう。そう言わせてしまっているのなら僕の説明不足なのですが、それだけ僕がこの構文に依存していたということを理解いただければ幸いです。
いや、ちょっと待て。「しょ〜もない」だけは取り消せ。それだけは本当に許せない。全然しょ〜もなくない。そんな汚い言葉を俺の前で2度と使うな。クソが。
本家取りを捨てるということは、僕にとって、お焚き上げのようなお定まりの行事ではなく、右腕を切り落とすに近い行為なんです。
言語野の予測変換第一候補にこびりついていましたが、今日を境にきっぱりとお別れしようと思います。
まあでも、正味なところ、このブログ書きながら『「ガンジーでも助走つけて〜」と同じ構図じゃんね』と気付いた瞬間、なんの愛着もなくなりました。な〜んだ、後生大事に抱えてきた構文、二番煎じかい。ハァ〜なんだよ、捨て捨て。捨てだ、こんなもん。
気になった方がいたら、使ってみてください。
イマイチ伝わってないかもしれませんが、これ本当に便利なんです。
あと、ついでに「この光景、絶対走馬灯で見るわ」も捨てます。
これは便利とかではなく、ユーモアが発生しないただのコメントに過ぎないと気付いたので。